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京都地方裁判所 昭和43年(わ)574号 判決

主文

被告人らはいずれも無罪。

理由

第一本件公訴事実の要旨

被告人幸寺恒敏は、昭和四三年三月一五日当時京都大学(以下京大という。)医学部研修生にして、昭和四二年度青年医師連合(以下、四二青医連という。)副委員長兼同京大支部執行委員、被告人田原明夫は、同じく京大医学部研修生にして四二青医連京大支部委員長、被告人大浜和夫は、同じく京大医学部研修生にして四二青医連京大支部代議員をしていた者であるが、四二青医連京大支部は、かねてより、青医連が標榜する大学医局制度改革運動の一環として、昭和四三年度度京大医学部大学院臨床系博士課程入学試験のボイコットを決議していたところ、京大医学部研修生泉谷守(当時二七才)がこれを無視して右入学試験を受験しようとしていることを探知するや、同人をして右受験を断念させるため、京大医学部学生馬場博公等約一〇数名とともに、同日午前八時二七分ころ、右入学試験場の京大構内医化学薬理学講堂内において、同日午前一〇時から開始予定の右入学試験受験のため試験開始前より同試験場所定の席に着席していた右泉谷を取り囲み、同人に対して右受験を断念するよう説得につとめたが、その翻意を促すことがとうてい不可能とみるや、右学生等数名が「もう時間がない」「これまでだ」「やろう」等と呼びかけたのを機として、ここに右馬場等一〇数名との間に、右入試が実施されている間右泉谷を試験場外へ強いて連れ出して試験場から隔離拘束することを共謀のうえ、同日午前九時四〇分ころ、同所において、一斉に右泉谷の背後からその両脇に腕を入れて同人を通路側に抱え出し、その場に足を踏んばつてなおも踏み留ろうとする同人の両腕を引張り、あるいは背中等を強く押す等してむりやりに同人を同講堂内から隣接する北側控室内に連行し、同所において同人を西側扉の前に立たせて取り囲み、その胸部を押しあるいは体当りを加える等し、さらに右入学試験開始時刻の切迫するに伴い、試験場内へ戻ろうとする同人に対して、その右肩附近を突き飛ばして右控室から階下へ通じる北側階段下へ突き落したうえ、階下医化学実験室前において同人をして同実験室の扉を背にして立たせてその周囲を取り囲み、同人がなおもその場より再三脱出を試みるやその前方に立ち塞がり、あるいは押し返す等して午前一一時二分ころまでの間、同講堂北側控室ないし医化学実験室前等において同人の行動の自由を束縛して脱出を不能ならしめ、もつて右泉谷を不法に監禁したものである。

第二本件に至るまでの背景ならびに経緯〈略〉

第三昭和四三年三月一五日京大医学部臨床系大学院入試当日の状況(本件における被告人らの行為)およびその後の経過

一〈証拠略〉を総合するとつぎの事実が認められる。

被告人らは、前認定のように、いずれも四二青医連京大支部の役員をしていたものであるが、同支部が昭和四二年一二月ごろ青医連の標榜する日本の医療・医学教育制度、医師養成制度改革のため、インターン制度廃止、大学医局講座制改革運動の一環として昭和四三年三月一五日に施行される京大医学部臨床系大学院入学試験ボイコットを決議しており、さらに同年三月一二日には、右試験当日、もし臨床系大学院受験者があるときは、これに受験断念を説得しようと申合わせていた。ところで同支部員泉谷守は、従前から同試験を受験する意思を固めていたが、これを公表しないまま秘かに受験しようと考え、同支部員の説得活動を回避するため右開始前に受験場に入場しようとして、右試験当日の三月一五日午前七時一〇分ころ、二、三日前から投宿していた京都市内所在の国際ホテルをタクシーで出発し、午前七時二五分ころ試験場である京大構内医学部医化学薬理学講堂(以下、本件講堂という。)に到着し、同講堂西南隅に隣接する控室に入つて時間を過ごし、午前八時二五分ころ同控室から本件講堂内に移り所定の席に着席した。被告人らは、午前八時三〇分ころ右事実を知り、まず被告人幸寺恒敏外数名が、続いて被告人田原明夫、同大浜和夫等計一〇数名が順次同講堂内の西側最前列から四列目、北側から二番目に着席していた右泉谷の周囲に集り、同人に対し、こもごも受験の理由を問い質し、あるいはこれを断念するよう説得した。しかし、同人は要するに「診療所を開設している父親が失明に近く健康が勝れないので自分としてはいわゆる赴任の必要のない大学院に入り、京都に留る必要がある」という返答をするのみで翻意しないまま同日午前九時四〇分ころに至つたところ、福増広幸が「もうここら辺で四二の態度を決めようや。」と言い、他の者が「時間がきたので受験しないものは退場してくれと言われた。」旨言い出したことから、被告人田原が「どうしよう。」と問いかけたところ、説得に当つていた者の中から「外へ出て話を続けよう。」「さげすみの目で見てこれで止めよう。」「外へ出よう。」などの意見が出された。そこで、同被告人は、泉谷の述べた受験理由から判断して、同人はまだ説得の余地があるかも知れないうえ、同支部員から受験者を出すことによつて、同支部の運動が崩壊するおそれがあるから、引き続き試験場外で同人を説得してみようと考え、同人に向い合つたまま同人に対し外に出るよう促す動作をしたことから、ここに、被告人らは、同支部員馬場博公外一〇数名とともに、右泉谷を同講堂から連れ出してさらに説得を続け、受験を断念させようと考え、互いに意思を通じて、被告人大浜が同人の背後からその腋の下に両手をさし入れ同人を持ち上げるようにし、右馬場が泉谷の右腕を引くなどしで同人を同講堂北側通路に抱え出し、これに対し同人が強く抵抗しなかつたが腰を落して足を突張るようにして体を反らせ踏みとどまろうとするのを、被告人大浜が後から前記姿勢のまま押し、他の数名が泉谷の腕を引き、あるいは上体を押すなどして、むりやり同所から約五メートル西の、同講堂北西隅に隣接する控室(以下、本件控室という。)に連れ込んだ。被告人田原は泉谷の筆記用具などをまとめて同人の紙袋に入れて持ち、その後方に続いて同室に入り、同所において、泉谷がいつたん受験場に逆戻りしようとして被告人らの囲みに体を押し当てるようにしたのに対し、同被告人が「まあまあ、外へ出てじつくり話さなければだめじやないか。」と申し向けてなだめた。さらに被告人らは、泉谷を同室西側扉の前中央付近に立たせ、受験場への入口の扉を閉め、同人との距離を約五〇センチメートルに保つてその右側に被告人田原が、正面に同大浜が、左側に同幸寺がそれぞれ位置するなどして常時七、八人でこれをほぼ半円形に取り囲み、こもごも「何故受けるんか。」「理由を言つてくれ。」「外で話そう。」「僕達と一緒に運動していこう。」などといつて説得を続けた。そして、試験開始時刻が迫つた同日午前九時五九分ころ、被告人田原は、泉谷をさらに引き続き説得するため屋外へ出るよう促すべく、同人の筆記用具などの入つた前記紙袋を同人に手渡した瞬間、同人はこれを床に放り出し、再度受験場へ戻ろうとして力をこめて右肩から被告人らの囲みに突き進んだところ、泉谷の右横から、被告人らのうちの一名が泉谷の右肩口を押し、同人を同室北側の観音開きの扉のうち西側扉が片開きになつていた出入口方向へ押し、控室から階下へ通じる階段(以下、本件階段という。)上部踊場に押し出した。そうして被告人らは、足をもつれさせながら同階段をおりる泉谷と相前後して階下までおりた。被告人らは、同日午前一〇時すぎころから一一時二分ころまでの間同所医化学実験室(以下、本件実験室という。)前において、同室の扉を背にして立つた泉谷に対し、被告人幸寺がその右前に、同大浜がその正面に、同田原がその左前に、さらにその他の二、三名がそれぞれ泉谷から数一〇センチメートル離れてほぼ半円形に立ち、他の者はこれから約一ないし約二メートル離れた位置に、あるいは階段に立つなどして、こもごも重ねて同人に対し受験する理由を問い質し、あるいは受験を断念するよう説得し、あるいはさらに喫茶店へ行つて話をしようなどといい、これに対し同人が立ち去るような気配を示すと、その方向に立つ者が手掌で同人の前進を止め、あるいは身体を同人の進路に寄せるなどし、同人をして同所に滞留することを余儀なくさせた。

なお、被告人らが泉谷守を本件講堂から本件控室へ連れ出すときの状況につき、第一八回公判調書中の証人土屋正孝の供述記載には、泉谷が嫌がつて体を「く」の字型に曲げ両手を前方に出す恰好になり、これを被告人らが前から引き、後から押すという状態であつたとの部分があるが、右は被告人らが泉谷を座席から本件講堂内北側通路へ抱え出す際の、あるいは、その直後の状況につき述べたものとして十分信用するに足るものである。ところで、証人横山博の当公判廷における供述の中には、被告人らが泉谷を引いたり押したりした事実はなく、同人がひとりで普通の姿勢と足どりで控室まで歩いて行つたという趣旨の部分、また証人福増広幸の当公判廷における供述の中には、泉谷がひとりで早目に歩いていき、支部員がその周囲をバラバラと少し離れてついていく状態であつたという趣旨の部分がそれぞれあり、さらに被告人大浜和夫の当公判廷における供述の中にも右証人福増広幸の供述部分に符合する部分があるけれども、右はいずれも前記各公判調書中の各証人泉谷守の供述記載、第一八回公判調書中の証人土屋正孝の供述記載に照らして信用できず、その他本件証拠を精査しても前認定をくつがえすに足る資料はない。

二また、〈証拠〉を総合するとつぎの事実が認められる。

1  泉谷守は、昭和四三年三月一五日午前中の大学院入学試験受験を妨害され、直ちに京大病院内科第一講座本庄教授の研究室へ赴き、同教授に事情を説明し、同日午後に受けることになつていた口頭試問を同所で受け、午後一時ころ帰宅した。そして右泉谷は、同日夜京都タワーホテルへ赴き、同所で開催された京大医学部教授会に出席のため集つていた森本正紀教授ら一、二名と同ホテル内のバーで話をし、告訴することを使嗾され、翌日泉谷方へ事情聴取にきた川端警察署員に告訴した。また、泉谷守は同月一八日青医連脱退届を作成し、内容証明郵便で被告人田原宛送つたが、その内容は、要するに「泉谷自身青医連の指向する目的方針に共感を覚え、事実上その一員であつたが、その運動に物理的実力行使を許容する以上最早組織に留ることはできない」という趣旨のものであつた。さらに同人は、金沢市内において、同月二〇日から施行された医師国家試験を受験した外、同月二四日大学側の特別の取計いで大学院入学試験の再試験を受け、これに合格し、同年四月一日から京大病院第一外科で患者の診察診療にあたつた。

2  そうするうち、同月上旬、本件につき強制捜査が開始され、警察機動隊が京大構内に捜索に入り、さらに被告人らが相次いで逮捕されるに至つた。

ところで、同年二月以来四二青医連京大支部および同年三月医学部卒業予定者はストライキを続けていたが、この間、京大総長が医学部教授会に対し団体交渉の必要性を説いて同教授会が団体交渉を拒否している態度を批判したことから、四月一九日にようやく医学部教授会、同附属病院側を代表する緊急対策委員会と四二・四三青医連京大支部との間で団体交渉が開始され、同年六月一一日研修協約が締結されるに至つた。

その内容は、(1)昭和四二年三月および昭和四三年三月医学部卒業者各一三〇名を青医連京大支部員として京大病院に受け入れる。(3)研修内容等は教授会側代表と四二・四三青医連京大支部との合議合意のうえ決定し、当分の間四二青医連については六か月を一単位として一年間、四三青医連については三か月を一単位として二年間の自主的カリキュラムを承認し、病院側はこれに便宜をはかり、研修は指導医のもとに患者を受け持つこととする。(3)登録医制度に関する支部員の事務手続は青医連京大支部との合意承認のうえこれを行なう、というものである。

なお、前記医師法の一部改正案は、同年五月一五日法律第四七号として可決成立して公布され、いわゆる報告医制が定められたため、インターン制度は法制上廃止され、医科大学、大学医学部学生は卒業後直ちに医師国家試験の受験資格が付与されることになり(同法一一条一号)、同試験に合格後大学医学部もしくは大学附置の研究所の附属病院または厚生大臣の指定する病院において二年間以上臨床研修に努めるものとする旨規定され(同法一六条の二第一項)、いわゆる卒後研修は任意的なものになつたが、当該病院長は、右臨床研修を行なつた者があるときは、その旨厚生大臣に報告することになつた(同法一六条の三第一項)。

3  泉谷守は、昭和四三年八月二〇日ころまで京大臨床系大学院学生として京大病院にいたのであるが、同年四月以降本件に関する学内機動隊導入その他事態が進展したため、そのころ稲本教授によつて麻酔科実習を厚生年金病院でするよう指示され、同年八月下旬から一一月まで同病院に勤務したものの、その後さらに稲本教授によつて学内が非常に険悪な状況下にあるから学外で実習するようにと言われたが、これを断り、学内が平穏になるまで待つことにした。しかし、同年一二月に大学当局側が同人の退学を望む雰囲気を示したため、泉谷はこれを察知憤慨し、昭和四四年一月二二日自主退学し、同年二七日岐阜市内の医療法人慈光会村上外科病院に勤務することになつた。

第四本件における監禁罪の構成要件の成否

本件公訴事実は、要するに、被告人らは馬場博公外一〇数名と共謀のうえ、暴力を用いて京大医学部臨床系大学院入試を受験しようとする泉谷守を本件講堂から本件控室に連れ込み、右入試当日午前九時四〇分ころから九時五九分ころまでの間同控室において、その後引き続き同一一時二分ころまでの間本件実験室前においてそれぞれ同人を監禁したというのである。

一第三において認定したところからみて、被告人らが泉谷守を本件講堂から本件控室に連れ込んだ行為および、同人を本件控室から本件階段上部踊場へ押し出した行為が、その態様においてさほど強くはなかつたが、暴行に該当することは明らかである。

ところで、刑法二二〇条一項にいう「監禁」とは、人が一定の区域から出ることを不可能または著しく困難にすることをいうのであるところ、これを本件についてみるに被告人らが泉谷守を本件控室に連れ込んだ後の状況を検討すると、前認定のとおり、被告人らは約二〇分間同室西側扉の前に立つた泉谷に対しほぼ半円形に常時七、八人が同人を取り囲んだことが明らかであるけれども、他方、前認定のとおり、同室の北側本件階段への出入口の観音開きの扉の片方が開いていたこと、被告人らが同室においてこもごも泉谷に対し「外へ出よう」。などといつて同室から外へ出るよう促し、入試受験を断念するよう説得していたこと、同日午前九時五九分ころに至つて、泉谷が受験場である本件講堂へ戻ろうとした際、被告人らが同人を同控室から本件階段上部踊場へ押し出し、ついで階段中間踊場を経て階段下の本件実験室前まで移動したことも明らかであつて、その他本件証拠を精査しても右認定に反する資料はない。

右事実に徴すると、被告人らが本件控室において右泉谷を取り囲んだ行為は、単に同人が本件講堂に立ち戻ることを制止しようとしたにとどまるものであつて、同人としては、被告人らの右行為によつて同室からの脱出のため本件階段へ出ることについてまでも不可能または著しく困難な状態におかれたものとはとうてい認め難く、したがつて被告人らの右行為が監禁罪の構成要件に該当しないことは明らかである。

つぎに、第三において認定したように泉谷は右肩付近を押されて本件控室北側にある出入口の観音開きの扉のうち西側扉が片開きになつていた所から外へ押出され、ついで足をもつれさせながら階段中間踊場まで降りたのであるが、さらに第三掲記の証拠によると、同人は同所からは、あわよくば西に回つて再び正面から受験場である本件講堂に入れるかもしれないと考えて階段を駆け降りたことが認められる。右認定事実によると、泉谷が本件控室から本件実験室前に至るまで移動した過程のうち階段中間踊場から階段下までおりた行動は同人の自意的かつ目的的な意思に基づくものであつたことが明らかである。さらに泉谷が被告人らによつて本件控室から押し出された後階段中間踊場に至るまで移動した際の状況について検討するに、泉谷は、前認定のように被告人らによつて押し出されたことによつて控室から北側扉を経て階段上部踊場に移動したのであるから、その勢いによつて北側扉から直進的に移動するのが通常であるところ、その行手の約二メートルへだてた個所には手摺りがあつて右押し出し以外の何らかの作用を受けなければ右手摺りの手前から曲つた進路をとつて階段をおりて中間踊場まで移動し得ない筈であるが、このことに、前認定のように泉谷が階段上部踊場から同中間踊場まで移動したことが被告人らの行為によつたものであることを認めるに足る証拠は存しないことを考え合わせると、前認定のように泉谷が階段上部から中間踊場に至るまで足をもつれさせながら降りていつたのは、前認定のような本件控室における被告人らの押し出しによるものでないことはいうまでもなく、階段上部踊場における被告人らの泉谷に対する暴行があつて、これによるものでないこともまた明らかであるといわなければならない。ちなみに、前掲公判調書中証人泉谷守の供述記載によつても、泉谷が被告人らの行為によつて本件控室において押し出されたのは、泉谷が本件講堂に戻ろうとした瞬間のことにすぎないことが優に認められるのであつて、本件公訴事実がいうように被告人らは控室において泉谷の「右肩附近を突き落として右控室から階下へ通じる北側階段下へ突き落とした」とはとうてい認められないのである。その他本件証拠を精査しても右認定をくつがえすに足る資料は存しない。以上説示したところに、当裁判所の検証調書、証人横山博に対する当裁判所の尋問調書によつて認められるように本件控室の北側の扉は当時観音開きの扉のうち西側扉が大人一名が十分に通り得る程度に開いていたことを考え合わせると、被告人らが本件控室から泉谷を押し出した行為が暴行に該当することは前説示のとおりであるけれども、それが被告人らの泉谷に対する監禁のための手段でなく、また同人が前認定のような状態で階段上部から同中間踊場を経て階段下に至るまで移動したことが同人に対する被告人らの暴行によるものでないことはいうまでもなく、その他監禁のための有形、無形の言動によるものであるとは認め難く、したがつて右移動が公訴事実のいうような被告人らの泉谷に対する監禁行為によるものであるとはとうてい断定することができないのである。

さらに、第三において認定したように被告人らは本件実験室前において泉谷に近接してこもごも同人に対し受験理由を問い質したり、受験断念を説得する等し、右泉谷が同所から立ち去ることを試みようとするたびに被告人田原が手をもつて押えあるいは他の者が手掌で押えたが、同所の地形は、裁判所の検証調書、司法警察員作成の検証調書によると奥行0.74メートル、巾1.65メートルの凹状であることが認められるから、被告人らが本件実験室前において泉谷をほぼ半円形に取り囲んだことはとうてい否定できない。しかしながら、第一三回公判調書中の証人泉谷守の供述記載によると、泉谷は本件実験室前に降りてからは落ち着いた状態になり、また被告人らともみ合うことはほとんどなく、すぐ定着状態になり、もはや午前中の試験を受験することは諦める気持にもなり、かつ、被告人らから説得を受けることを免れるため、力の限りをつくしてまでも同所を立ち去ろうという考えを放棄したこと、しかも、同人が右のように同所から立ち去ることを試みようとした行為は、ことによつたら、容易に囲みから出られるかも知れないといういわば打診行為の程度にとどまり、さして強力なものでなかつたことが優に認められ、したがつて同人が同所を立ち去ろうとするのを被告人らが制した行為もさして強力なものでなく、泉谷を同所に強く拘束するに足る程度であつたとは断定し難い。そうだとすると、泉谷が同所において被告人らによつて取り囲まれ、また第三において認定したように約一時間一定場所に滞留を余儀なくさせられたとはいえ、それは、同人が同所から脱出することが不可能または著しく困難な状態であつたとはとうてい認め難いのである。なるほど同公判調書中の右証人泉谷守の供述記載によるとその間の午前一〇時四〇分ころ同所に上田政雄教授が現われるや、泉谷守は突然に被告人らに勢いよくぶつかつていき、そのため被告人大浜が一、二歩後退し、さらに後にいた者がこれを支えなければならない程であつたことが認められるけれども、右認定事実は、泉谷が強く同所を脱出しようと試みたとみるよりは、むしろ同教授に対し、単に自己が受験できないという窮状を訴えるという、とつさの機転から発したものとみられるのであつて、前認定に消長をきたさない。

ちなみに、証人上田政雄の当公判廷における供述によると、当日試験監督をしていた上田政雄教授は、午前一〇時四〇分ころ本件実験室前の現場の状況を確認に行き、本件階段中間踊場から一、二段降りた地点から泉谷が被告人らに取り囲まれている状況を見て、泉谷がただ試験を受けたいというだけで被告人らと話もつけないで受験場に入ろうとすれば、被告人らがこれに続いて試験場に入場し、混乱するおそれがあると考え、泉谷に対し「話をつけて入つてきなさい。」と言葉をかけたというのであり、証人藤本隆敏の当公判廷における供述によると、藤本隆敏は、当日午前一〇時二〇分ころ、本件実験室前を通りかかつたが、泉谷と被告人らとは「ぼそぼそ話してるような感じでした」というのであり、また藤原元始の検察官に対する供述調書には、藤原元始助教授は、当日午前一〇時過ぎから一〇時三〇分ころまでの間二回にわたり本件講堂の北方約二五メートル離れた建物二階から本件実験室前において被告人らに取り囲まれている泉谷の様子を見たが、第一回目に見たときは「別にもめごとが起つているようには見えず、学生がやまをかけるか何かの話しでもしているのだろう位に思つた。」旨、また第二回目に見たときは「お互いに手を出しているようなことはなかつた。」旨の各供述記載があり、右諸供述を総合すると、本件実験室前における被告人らの行為を目撃した人々をして、それが泉谷守の同所からの脱出を不可能または著しく困難にしているという特別な事態であると感じさせるものではなかつたことが優にうかがわれ、特に、何か事件があつた場合には証拠保全のためカメラを持ち歩くという注意を払つていた上田教授をしてさえも、本件実験室前における被告人らの行為が監禁等何らかの犯罪にふれると感じさせる程の異常さを認識させるものでなかつたことさえ認められるのである。

二また、本件における被告人らの行為が泉谷を監禁する故意に出たか否かについてみるに、証人泉谷守の当公判廷における供述、被告人田原明夫の当公判廷における供述および同被告人の検察官に対する各供述調書によるとつぎの事実を認めることができる。

1  泉谷守は、昭和四二年一二月には翌年三月の大学院入試受験の意思を固めていたのであり、このことは親交のあつた同僚松本、泉川両名に対してそれとなく話していたが、他の四二青医連京大支部員には話していなかつたところ、被告人田原は、昭和四三年三月一〇日ころ泉谷守が同支部員織田祥史とともに本件臨床系大学院入試を受験するべくその手続をとつていることを知つた。そして、前認定のとおり、同被告人は同月一一日、伊藤邦彦方で泉谷を含め数人で会合したが、当日同人らと医師国家試験受験についてのみ話をしただけで、大学院受験についてまで話をする時間的余裕がなく、翌一二日以後は泉谷と会う機会すらなかつたため、四二青医連京大支部としては同被告人を除き誰ひとりとして泉谷の臨床系大学院入試受験の理由を知る者はなかつた。また、前認定のとおり、昭和四三年二月以降大学医学部当局は、自主的研修生の中にも四二青医連京大支部に加盟していない者があるとして同支部のみを相手に団体交渉その他の交渉することはできないという態度をとつており、むしろ、交渉相手は、いわゆる大学のクラス単位にしたい意向を示していたから、同年四月以降の自主的研修につき交渉が難航している同支部としては、ボイコットを決議している臨床系大学院入試を受験する支部員が出ることは一層その立場を弱くし、ひいては組織崩壊に通じるおそれがあつたほか、青医連の組織から脱落した者は、大学内においていわゆる村八分的立場に立たされるおそれがあつた。こうした事情から被告人らは、是非とも泉谷守から受験の理由を問い質し、受験を断念してもらうとともに、同人との間で青医連の運動につき真剣に討議し合う必要があると考えた。しかも、前認定のとおり、本件試験当日の三月一五日、本件講堂内で泉谷が被告人らに開陳した大学院入験受験の理由は、要するに京都市内で診療所を開設している父の健康が勝れないため、いわゆる「赴任」の必要のない大学院に入つて京都に留りたいということであつた。しかし、このような個人的事情については、四二青医連京大支部が、自主的研修にあたつて自主的カリキュラムを編成し、あるいはアルバイト委員会がアルバイトの自主調整をしていることなどの事実から、同人としても自主的研修生として非入局のまま依然として京都に留れるよう配慮される可能性が大きかつたのであり、右のような泉谷の個人的事情は、大学院に入らなくても四二青医連自体の問題として解決可能であつた。そのため被告人田原は泉谷に対し大学院入試受験断念を十分に説得することができるものと考えた。

2  前認定のとおり、本件講堂内における被告人ら四二青医連京大支部員らの泉谷に対する接触は、同月一二日の支部総会流会後の申合わせに従い、同所から泉谷を連れ出すに至る以前においては、終始同人に対する大学院入試受験の理由についての問い質しと受験の断念を促し、または、さらに青医連運動について話し合うことを基調とするものであつたことが明らかである。つぎに、前認定のとおり、被告人らは泉谷に対し暴行を用いて同人を本件講堂から連れ出しはしたものの、右は、試験開始時刻が迫つたにせよ、四二青医連京大支部員らが同人をさらに説得できる可能性と必要性とを覚つたため、引き続き試験場外で同人を説得する意図からであつて、そうすることによつて結果的には同人の受験の機会が奪われることはあつても、同人をその行動の自由を奪つて一定の場所に拘束する意図に出たものではなかつたと認められるのであるから、被告人らに監禁の故意があつたとは即断できない。

三以上の次第であるから、本件において被告人らが試験場から泉谷を連れ出した行為および本件控室から同人を押し出した行為がいずれも暴行に該当することは明らかであるけれども、これらの行為を含む本件における被告人らの行為が監禁罪に該当するものと認めるに足る証明は十分でないといわなければならない。しかしながら、右暴行に該当する行為をふくむ被告人らの行為が他の何らかの刑罰法規によつて処罰されるべきか否かについて、以下項を改めて検討する。

第五翻つて考えるに、既にるる説示したように、日本の医療、医学教育制度、医師養成制度即ち、大学医局講座制、インターン制度、臨床系大学院の実態等の内含する矛盾、問題点については、京都大学当局者においてすら、これを座視し得ない面があるとして、これらに関する青医連の主張を評価し、一時期にあつては、これらの一部ではあるが改革のため青医連と共同歩調をとつたこともある程であり、かつまた、大学院制度と直結しているインターン制度については、厚生省文部省等国家機関をしてその制度の改革を実現せざるを得ない立場に追いやつたこともあるなどの事実に照らすと、臨床系大学院の存在価値等についての青医連の主張は十分首肯するに足るといえよう。

そして、右のような青医連の主張、特に、その内部運営方針として四二青医連京大支部の目的、組織および少数意見を最大限に尊重しようとしたことと前叙のようなその実績からみて、前認定のような泉谷守の大学院受験の目的が青医連の組織内で十分に解決可能な域にあると考えられ、それがかりに不可能であるとしても自ら青医連を脱退して受験することはできた筈であるのに同人の脱退届にも見られるように、同人が組織の一員であり、かつ、臨床系大学院ボイコットという青医連の活動目標の重大性につき十分これを認識し、かつ、前記青医連における少数意見を尊重する手続的保障の存在を知りながら、あえてこれらを無視して隠秘に本件大学院入試を受験しようとしたことは、泉谷守の青医連に対する重大な背信行為であるというべきであり、四二青医連京大支部が、前認定の目的、組織および活動の実体からみて社団としての性格を有している以上、右のような背信的統制違反者に対しては統制権の行使も社会通念上許容される限度において容認されるものと考える。すなわち、既に受験のため試験場の所定の席に着席し、試験開始を待つばかりの態勢にあり、かつ、受験断念の説得に対してもなお受験の意思を表明しているような者に対しては、同人が四二青医連京大支部の一員であるからといつて統制権行使を口実として手段を選ばずこれを試験場外に連れ出すが如き行為はとうてい容認できない。しかし、泉谷の大学院入試受験という権利行使は、それが前叙のように青医連に対する背信行為であり、また、既に第二、第三の二においてふれ、あるいは認定したように臨床系大学院の実体の空疎化による存在価値についての払拭し難い疑問および本件において泉谷の場合にみられるような同大学院入学と退学の際のあいまいさが存し、かつ青医連の主張、内部運営方針が前認定のとおりである以上、これを妨害されるべきでないという利益の要保護性は、既に大いに稀釈化されていたものというほかはない、しかも、第二、第三において認定したところから明らかなように、被告人らのうち被告人田原は本件試験の数日前に泉谷の大学院入試受験の意思を確知してはいたが、同被告人はその職務の多忙と泉谷側における青医連という組織に対する軽視的姿勢から、これを組織的内部でもまた個人的にも問題として取り上げ、同人を説得するいとまのないまま本件当日に至つたものであるが、本件における被告人らの一連の行為が、あくまで説得による受験断念を基調としていたものであり、被告人らとしてはいまだ説得できる可能性を相当程度に確信しており、かつ組織崩壊のおそれに直面し、これを防止しようという組織防衛のためやみ難い心情から発した行為であつて、また、それは、当時の時間的切迫状況からしてやむを得ない、しかもその態様においても、さほど強くなく背信行為者に対する必要最小限度にとどまつていると見られる。他方、泉谷は、本件において、試験場の講堂から連れ出されるに際し、つぎに本件控室から右講堂に戻ろうとするため、また本件実験室前から立ち去ろうとするため、その都度、あるいは青医連の主張、運動について討議し合うとか、あるいは被告人らに対し強く抗議するとか、あるいは他に救助を求めるとか、あるいは徹底して試験場に踏み留り、あるいは同所に立ち戻るべく強く抵抗をするなどの言動をとらなかつたことに徴すると、同人は、受験の動機理由における個人的事情の点は格別、青医連の一員であつてその主張に同調する心情から被告人らの言動に接し、受験を断念するもやむを得ないという気持が混在していなかつたとは即断できない。

前叙諸事情を彼我総合して考えると、被告人らの本件行為が、その動機、目的において十分に首肯するに足り、その態様においても社会通念上許容される限度をこえていたとはとうてい断定し難いといわなければならない。したがつて、被告人らの本件行為にして、あるいは第四において説示したようにその一部において泉谷の身体に対する暴行に該当するところがあり、あるいは同人の受験という権利行使を妨害するところがあつて、かりに当該刑罰法規にふれるところがあつたにせよ、それは被告人らに対して刑罰を科さなければならない程違法性が大きいものがあるとはいえない。

以上の次第であるから、本件公訴事実は結局証明が十分でない。よつて、刑事訴訟法三三六条により被告人らに対しいずれも無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(吉川寛吾 太田浩 久保内卓亜)

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